自己分析

珍しく手持ち無沙汰に耐え兼ねるので、自己分析でもしてみようと思う。

そもそも私は、就活の為の自己分析というものをまともにしたことがない。なぜなら、就活用の自己分析には少なからず「社会における自らの有用性・有益性」を炙り出すものとしての側面があると考えているからだ。二十余年の短い人生において、ひたすらに労を厭い、易きに流れてきた自分には、社会から歓迎されるような人間性や能力はひとつとして無い。そうであれば、いわゆる自己分析をしてみたところで社会人としての強みなどと銘打って語れるものが出てくるはずが無く、特定の企業に従事する必然性を訴える為の土台となるような自己の存在が浮かび上がることなど期待できるはずもない。自分のような無益な人間が、周囲との足並みを揃えようと焦って自己分析に励んでも、浮き彫りになった薄っぺらい自己と周囲との差に慄然として悪夢にうなされるのが関の山だ。

ではなぜこの期に及んでそんな無駄に興じようと思い立ったのか。正直なところ、特別な理由はない。ただの気まぐれだ。理由で行動が起こせるような人間でないのだから、行動原理はいつだってこの胸の気分ひとつなのだ。どうせ無駄な人間の無駄な人生だ。なすべきことを放棄して作り出した偽りの閑暇に、無駄をひとつ加えたって今更誰も咎めないだろう。

長過ぎる前置きもこれくらいにして、自分(笑)を暴いていくことにする。

 

人格について

何だこの茫漠としたテーマは。自分で設定しておいてなんだが、あまりにも射程が広くて捉えきれない。幸先が悪過ぎる。足掛かりにでもなればと、ひとまず"人格"の辞書的な意味を調べてみる。

 

人格(読み)ジンカク


㋐独立した個人としてのその人の人間性。その人固有の、人間としてのありかた。「相手の人格を尊重する」「人格を疑われるような行為」
㋑すぐれた人間性。また、人間性がすぐれていること。「能力・人格ともに備わった人物」
2 心理学で、個人に独自の行動傾向をあらわす統一的全体。性格とほぼ同義だが、知能的面を含んだ広義の概念。パーソナリティー。「人格形成」「二重人格」
倫理学で、自律的行為の主体として、自由意志を持った個人。
4 法律上の行為をなす主体。権利を有し、義務を負う資格のある者。権利能力。

人格(ジンカク)とは - コトバンク

自己分析を進める上では恐らく1-㋐あるいは2の意味合いでこの語を解釈するのが最良だろう。"人間性"、"人間としてのありかた"、"行動傾向をあらわす知能的面を含んだ性格"。これでもまだ漠然としているが、あまり字数をかけて論じると主題を見失ってしまいそうなので、「主に性格と価値観によって構成される性質および行動傾向の形成因子」とでも捉えておくことにする。

まず性格について。自分の性格を問われて最初に思い浮かぶのは「暗い」ということだろうか。暗さにもいろいろあるので、自分の暗さについて思い当たる要素を書き出してみる。

  • 基本的に物事が上手く運ぶとは考えない
  • 人と話すことが好きではない
  • 生活に憂鬱を感じている

これらを見ると、自分の性格は「悲観的」「内向的」といった性質も含んでいると考えられる。

 

飽き性」というのも自分の性格の主たる部分を占めているように思う。そもそも何かに熱中することがほとんど無いが、例え何かに関心を持ったとしてもとにかく続かないのだ。今日湧き上がった情動を明日覚えている自信すらない。三日坊主という言葉が褒め言葉になる程の飽き性である。

それに輪を掛けて私は自分でも引く程に「諦めが早い」。能力に乏しいという確固たる事実に裏付けられた自己効力感の薄さも手伝って、何でもかんでもすぐに諦めてしまう。だってどうせできないから。何をするにしても、達成・完遂の見込みが無いのであれば続けるだけ無駄だと思う。"過程に意味があるのだ"という高尚な金言を聞いてできた耳のタコの数は計り知れないが、正直馬耳東風だ。目に見えぬ成長を妄信して身体に鞭打ち努力を続けるくらいなら、はじめからずっと寝ていたい。

ここから「自己効力感が薄い」「完璧主義」「怠惰」「言い訳がましい」といった性質も浮かび上がってくる。

 

それから私は争いが好きではない。と言っても、平和を希求する博愛の徒というわけではない。「事なかれ主義」なのだ。波風が立ったり、他人から嫌われたりすることが怖くて仕方ない。だから角が立つ発言は好まない。なんとなく、当たり障りなく、事が運んで欲しいと願ってやまない。その割には就活アドバイザーへの恨み言が多いことに自分でも少し驚くが、これは心の底から嫌悪する存在に対して理性を働かせる力が弱いということなのだろう。と、ここまで書いて思い直したが、事なかれ主義という姿勢をとるのはひとえに楽だからであって、理性を働かせる事ができるからではない。好き嫌いに関わらず「理性が貧弱である」というのも私の性質のひとつだろう。

争いを好まないことに関連してもう一点、「競争が嫌い」というのも偽らざる私の性だ。他人と競って優劣をつけるという営みをするのも見るのも嫌いなのだ。恐らく長い学校生活の中で常に"劣"の側にいた人間としての防衛機制のようなものなのだろうと推測するが、競争に晒されたり、それを目にしたりすると疲れて仕方がない。心身を削って争うくらいなら甘んじて負けを受け入れる、筋金入りの敗北主義者だ。

 

うじゃうじゃと湧き出る不毛な性格の全てを網羅するのは恐らく不可能だ。区切りをつけるためにも、次で最後にしようと思う。ここまで、私の性格の中核を成している要素を忘れていた。「劣等感」だ。私が人様に対して"強い"という言葉をもって表現できる自らの要素はこの劣等感と、それから希死念慮くらいではなかろうかと思う。劣等感は私の核だ。本当は"感"などという感覚的で曖昧な言い方はしたくない。私は自らの劣等を確信しているからだ。人間として明らかに劣っていることを日々痛切に感じながら生きている。感じているだけでそれを補おうと努めないところに私の致命的な欠陥があるのだが。劣等感は絶え間なく私の精神を削り続ける。どうにかして逃れたいと思いながらも努力をしない/できない自分はこの苦痛に身を委ねるほかない。

私は劣等感は劣等感そのものとして独立するものではないと感じている。この感覚の根本には、何か別のものがあるのではないかという予感がある。確信こそ無いが、それは「負けず嫌い」なのではないかと思う。そもそも、劣っているという厳然たる事実が単体で劣等感を生むことはないと思うのだ。どれほど劣等を自覚していたとしても、持ち前の諦め癖が正常に機能すればすぐに割り切れるはずなのだ。「ああ自分は何もできないのだな。まあでも仕方ないか、自分だし」という具合に。それを困難にしているものこそ、負けず嫌いという性質なのではないかということだ。この性質は「争いを好まない」上に「諦めが早い」はずの自分の性格に一見大きな矛盾を生んでいるように見える。しかしその実、これらの性格は歪な調和を生んでいる。

まず、「争いを好まない」のに「負けず嫌い」とはどういうことか。恐らく、他人に対して、常に優位でありたいということだ。「他人との争いの余地がない程に圧倒的に勝っている状態」に身を置きたいというのが自分の隠された願いなのだろうと思う。

続いて「諦めが早い」のに「負けず嫌い」。これは、突き詰めると「努力をせずに勝ちたい」という欲求に辿り着きそうだ。

総合すると、「努力をせずに、他の追随を許さない程圧倒的優位に立ちたい」という具合になろう。文字にすると白昼夢でも見ているのかと自分の頭を張り倒したくなるが、この恥ずべき思想が自分の性格に溶け込んでいるのだろうと思う。

 

ここまで長々と自分の性格について考えてきたが、要約すれば、「陰鬱に感けて希望を捨て、何かを続けようという意志も継続力も持たず、自らの能の無さ故に"完璧"を実現できないことを言い訳に行動を起こすことからも逃げ、面倒事を嫌っては面従腹背に徹し、勝てないからとあらゆる競争を放棄する一方で負け続けることへの劣等感で勝手に摩耗し、労せず人よりも優位に立ちたいなどとごねる夢想家」ということになる。本当に救いようがないのだ。

 

当初はひとつの記事で自己分析を完結させるつもりでいたのだが、人格の分析だけで想定外の文量に達してしまったので、残りはまた気が向いた時にでも少しずつやっていくことにする。人格以外の項目として考えているのは「好き/嫌いなモノ・人」「就活の軸」「人生観」「強み/弱み」「モチベーションが上がる/下がる時」「得意/苦手なこと」「今までで一番頑張ったこと」「成功/失敗体験」だ。どこに自己分析を連載するブログ運営者がいるのかと我ながら滑稽ではあるが、全て暇つぶしの自己満足なのでまあいいかと思う。

思案を巡らせて少し疲れたので夜風に当たることにする。