不知火

喉が渇いた気がするからコンビニに行く。

リュックの底の財布を漁り、よれたパーカーを羽織る。イヤホンを耳に押し込んで聴き慣れた音楽を再生する。外界の音が流れ込んでこないように、音量は気持ち大きめに。マスクだって忘れない。醜い顔を隠せるから好都合なんだ。上着もマスクもイヤホンも、身につけていると世界と自分を紙一重で隔ててくれるような気がして少しだけ安心する。履き古した靴を足にかけ、爪先で地面を蹴りながら玄関を出る。雨後の冷気が心地良い。

仲睦まじく街を行く恋人達の後ろを独り歩くとき、自分の過去や未来に思いを馳せる癖がある。今晩の2人は互いに大事そうに手を握って笑い合っていた。女の子の足取りの軽さは10m後ろの私の両脚の重りになった。

恋とか友情とか家族とか、よくわからないまま人生の幕が下りるんだろうな。そんなことを考えながら赤信号を眺めていた。前の2人との間にある10mを、自分は埋めることができないのだと思った。信号が変わる。歩き出した2人が自分から離れゆくのを私は数瞬待った。少しだけ歩調を落とす。耳に流れる音量を2つ上げてイヤホンをきつく押し込む。

2人がコンビニに吸い込まれていくのを見ながら、できるだけ早く帰ろうと思った。入店のチャイムを鳴らす頃には喉の渇きも朧になっていた。何を買いに来たんだっけ。何かが欲しくて、それが何かを知りたくて店内を回る。さっき見たばかりの菓子売り場でまた迷っている。欲しいものが多くて迷うんじゃない。欲しいものなんてないとわかっているのに、何かを見つけられる、いや見つけなければと、自分の欲求に迷っている。

結局、求めるものはわからないまま、なんとなく目に入ったミルクティーと30円程のチョコレートをひとつ、袋に提げて店を出る。気付けばいつもこんなことをしているような気がする。家の照明では明かりを感じられなくて、真夜中のコンビニの曖昧な電灯を求めてしまう。そこに行けばなんでもあるような錯覚をずっと捨てられないでいる。

帰り道も赤信号に足が止まる。車も人もない。自分と赤信号とがあるだけの空間で、私はなお足を動かすことができない。これが倫理観だと言うなら、早く捨ててしまいたくなった。ルールとかマナーとか、そんなものは社会とよろしく付き合っていける人達のものであればいい。社会を認められず、社会からも認められない私が、何を律儀にルールを抱きしめ信号を守っているのだろう。くだらぬ思考の終わらぬ内に青信号に歩みを急かされた。

外気から私を隔ててくれる耳元の音楽も、誰もいない自室の中ではあまりにも鬱陶しい。コードを引っ張って剥がすようにイヤホンを外し、一息ついてチョコレートをかじる。ミルクティーで流し込む。美味しくはない。甘ったるさが口腔の内外に纏わりついて少し後悔する。私は200円弱で仄かな憂鬱感を買って帰ってきたらしい。