不健康体彷徨記

この間、衝動的に近所をランニングした。

衝動以外の何物でもなかった。暇に任せて曖昧な物思いに身を委ねれば、やがて自分の半生や将来のことにまで考えが及び憂鬱になると相場が決まっている。その日も例に漏れず安っぽい絶望(笑)に駆られ全てを投げ出したくなっていたのだが、ふと"精神衛生の改善には運動が有効"といった言説を思い出した。似たような話はこれまで耳にタコができるほど聞いてきたが、体を動かすことがとにかく嫌いな自分は気にも留めず聞き流してきた。しかしその日は、そんな運動にすら縋りたいほど苦しかったのか、はたまた外に繰り出そうと思えるほどには心身に余裕があったのか、実際のところは自分でもよくわからんが一度試してみようと思い立った。

そこで選んだのが身一つでできるランニングというわけである。"ランニング"などと言えば聞こえは良いが、その実態は日頃運動とは無縁な生活を送っている不健康体が、息急き切って重い身体を引きずりさまようというものであった。距離にして2km程度を走っただけなのだが、錆びきった身体にはこれが文字通り死ぬ程きつかった。当然心拍数はみるみる上がっていくし、呼吸が乱れて思うように息をすることもできない。あっという間に脚も自由には動かなくなるという有様である。これ本当にぶっ倒れるのでは…?などと思いながら走っていたのだが、全然そんなことはなく、疲労感と翌日以降の凄まじい筋肉痛だけを残して私の卒倒寸前気まぐれランニングは幕を閉じた。

私がこのランニングの成果を感じたのは帰宅後である。ランニング前にあった憂鬱感が全く無くなっていたのだ。とはいっても別に、"運動後特有の爽快感に包まれていて〜✨"とか、"少し前向きになることができて〜✨、とか、そういうことではない。これが一番大事。そういうことではないのである。単に疲れ過ぎて全てがどうでもよくなっていたのだ。

「死ぬも生きるも今はもうどうでもいい、とにかく疲れたから休ませてくれ」

私の中にあったのはそれだけだった。だが、実際これで十分ではないかなと思う。毎日のように生まれてくるネガティブな感情やそれに基づく厭世観に、例えほんの一時であれ自分の手で靄をかけることができるのであれば、それは一つの逃げ道になり得るのではないかと思う。何一つとして根本的な解決にはなっていないが、そもそも現状を根本的に転換する術があるのかどうかもよくわからないのである。だからといって自ら人生を終わらせるほどの度胸を持つこともできそうにない。そうであるとすれば、いつまで続くかわからないこの日々とそれに伴う苦痛を、どうにかこうにか和らげていくしかないように思う。

ランニングをした時に思いついた下手な例え話なのだが、私のような考え方をしている人間の人生には「雪」が降り続いていると考えることができるかもしれない。この「雪」はあらゆる負の感情・思想であり、降り止むことは決してない。「雪」は自らの意思とかけ離れたところで発生し、自分が望むか否かに関わらず地に降り積もる。「雨」ではなく「雪」の例えを用いたのは、降り止まない「雪」は除雪する者がいない限り積もり続けるからである。私にできるのは、降雪を止めることではなく、適度に雪掻きをすることだけなのかもしれないと思っている。もう長いこと、どうしても後ろ向きな発想しかできないことに苦しんだり、前向きな人間を羨んだりしてきた。自分の生き方や考え方そのものが負の感情を生む元凶であることに気付く一方で、それを180°転換するのが恐らく不可能であることにも気付いていた。だからいい加減、事あるごとに性格や思想傾向といった自分の変え難い部分に原因を求めることをやめたいと思う。といってもいきなりは難しいだろうから、できそうなところから少しずつという具合に。

私にはつまらない厭世観がある。陳腐な消滅願望がある。安っぽいが希死念慮もある。そしてそれらを私の人生から完全に消し去ることは恐らく不可能だと思う。だから、自分の手でそれらに靄をかけてしまえる方法をひとつずつ探していく。格好を付けているが要は逃げ道を沢山用意するということだ。全てが嫌になった時にその感覚を薄める術を探す。積もったストレスを一時的にでも掃き捨ててしまえるような「雪掻き術」を見つける。そんな風にしてのらりくらり、騙し騙し、逃げながら過ごしていこうと思う。