泥舟

思考に占める憎悪の割合が日増しに肥大する。

溢れる憎しみに脳味噌がとっぷり浸かっているような感覚がある。渦巻く憎悪に絡め取られて一歩も動けない。

この憎悪の大半は社会に対するものではない。この社会に対する違和感や嫌悪感も勿論あるが、それ以上に自分の異常性に耐えられない。止め処なく溢れる黒々とした感情の真の矛先は他ならぬ自分自身だ。自分が許せない。自分が嫌いで嫌いで仕方ない。気が触れてしまいそうだ。既に正常な思考は叶わないのかもしれない。

なぜこんなにも無力なのだろう。無気力なのだろう。刻々と過ぎゆく時の中でいつまで地団駄を踏んでいるのだろう。どれだけ言い訳を重ねれば気が済むのだろう。

意志が弱く、希望の持ち方も知らず、斜に構え、一見自責的なようでその実他責的で、言い訳がましく、自己中心的で、逃げと諦めを御家芸のように繰り返し、泣き言恨み言で日々を埋め立て、強者を妬み、成功者を嫉み、馬鹿の一つ覚えのように死を口にする割に行動に移す訳でもなく、朝が来なければいいなどと寝言を宣いながら、翌日の午後には差し込む西陽で目を覚まし、腹が減れば満たし、喉が渇けば潤し、結局生きることへの執着を克服できず独り惨めさに打ちひしがれている。そんな毎日を恥じながら今日もまた同じ1日を過ごす。

これが2年も前に成人を迎えた人間の姿だというのだから我ながら驚く。身も心もとうに大人になっていなければならない年齢だというのに、年相応の考え方も振舞いも満足に出来ない。そんな自分がとにかく許せない。しかし一方で「大人」とは何なのか、「年相応」とはどのような状態を指すのか、その曖昧さに戸惑ってもいる。ただひとつ自分が幼稚であるという確かな事実に打ちのめされては、進むべき方向もよくわからないまま現状を否定することに終始している。ひたすらに自分を嫌い、憎んでいる。

 

個人的には、自分を嫌う気持ちはそれ自身では必ずしも悪い感情とは言えないと思う。努力は自己の現状を否定することと背中合わせであるという話を聞いたことがある。そうであるとするなら、自分を嫌う気持ちは、時として、あるいは人により、努力のカンフル剤へと昇華することもあるはずだ。その場合、自己嫌悪や自己否定は努力やそれがもたらす人間的成長の母体として機能することになる。これはいいことだと思う。

問題なのは自身を嫌悪する感情が自己完結してしまう場合。その実例こそが他ならぬ自分だ。自分の場合、上に挙げたような自己嫌悪の昇華は起こり得ない。なぜなら、自分自身と同じくらい、あるいはそれ以上に辛いことや苦しいことが嫌いだからだ。自分を憎み、他方で努力を厭い、結果として徒らに自分を責め続けるだけの日々が生まれる。己を肯定することが出来ず、かといって完全に否定することもできないまま自責という手軽な手段に逃げるだけの毎日。「自分を許さない自分」という存在を自己の中に作り出して自我を保ち、偽りの安寧に胡座をかいているに過ぎない。なぜならそれが楽だから。わかっている。それすらもわかっているし、そんな自分もやはり嫌いなのだが、それに歯止めを掛ける努力にはどうしても踏み切れない。このような負の永劫回帰を何度も何度も繰り返している。自分のことを嫌い、それ以上に自分自身を好きになるために労力を割くことを嫌う人間が行き着くのは、もしかしたら一種の自己肯定なのかもしれない。自己否定が自己肯定であるという主張は矛盾しているようにも思えるが、これは逆説だと思う。私の思考を要約するなら「努力するくらいならこのままでいいや」という具合になる。これは大嫌いなはずの自分自身を中途半端に肯定している状態であるとも言えると思うのだ。

このような非生産的な習慣が生活に、思考に、深く根を張っている以上、今後何もせずに事態が好転することはまずないだろう。それどころか20を超えた今、肉体は日々僅かではあるが老いへと向かい、将来の選択肢も日毎に閉ざされていく。座して自責に耽る生活がもたらすのは現状の悪化とその先に待つ不可逆的な生活破綻だ。これほど恐ろしい未来を視線の先に明確に捉えてなお、私は自らの人生の舵を取れないでいる。することといえば決まって自分を呪うことばかりだ。恐らく自分は血の通った自壊装置なのだと思う。一路破滅に向かって歩む発条仕掛けの人形のようなもので、きっと破滅を迎えるその日さえ、身を持ち崩した自分自身に対し呪詛を吐きながら露頭に迷い死んでいくのではないだろうか。"人生の舵を取れない"と言ったが、この船にはもはや面舵も取舵もない。しんしんと降り止まぬ希死念慮とどす黒い怨念の潮の合間で、座礁か沈没かを待つだけとなった難破船こそが自分の姿なのではないかと思う。