不健康体彷徨記

この間、衝動的に近所をランニングした。

衝動以外の何物でもなかった。暇に任せて曖昧な物思いに身を委ねれば、やがて自分の半生や将来のことにまで考えが及び憂鬱になると相場が決まっている。その日も例に漏れず安っぽい絶望(笑)に駆られ全てを投げ出したくなっていたのだが、ふと"精神衛生の改善には運動が有効"といった言説を思い出した。似たような話はこれまで耳にタコができるほど聞いてきたが、体を動かすことがとにかく嫌いな自分は気にも留めず聞き流してきた。しかしその日は、そんな運動にすら縋りたいほど苦しかったのか、はたまた外に繰り出そうと思えるほどには心身に余裕があったのか、実際のところは自分でもよくわからんが一度試してみようと思い立った。

そこで選んだのが身一つでできるランニングというわけである。"ランニング"などと言えば聞こえは良いが、その実態は日頃運動とは無縁な生活を送っている不健康体が、息急き切って重い身体を引きずりさまようというものであった。距離にして2km程度を走っただけなのだが、錆びきった身体にはこれが文字通り死ぬ程きつかった。当然心拍数はみるみる上がっていくし、呼吸が乱れて思うように息をすることもできない。あっという間に脚も自由には動かなくなるという有様である。これ本当にぶっ倒れるのでは…?などと思いながら走っていたのだが、全然そんなことはなく、疲労感と翌日以降の凄まじい筋肉痛だけを残して私の卒倒寸前気まぐれランニングは幕を閉じた。

私がこのランニングの成果を感じたのは帰宅後である。ランニング前にあった憂鬱感が全く無くなっていたのだ。とはいっても別に、"運動後特有の爽快感に包まれていて〜✨"とか、"少し前向きになることができて〜✨、とか、そういうことではない。これが一番大事。そういうことではないのである。単に疲れ過ぎて全てがどうでもよくなっていたのだ。

「死ぬも生きるも今はもうどうでもいい、とにかく疲れたから休ませてくれ」

私の中にあったのはそれだけだった。だが、実際これで十分ではないかなと思う。毎日のように生まれてくるネガティブな感情やそれに基づく厭世観に、例えほんの一時であれ自分の手で靄をかけることができるのであれば、それは一つの逃げ道になり得るのではないかと思う。何一つとして根本的な解決にはなっていないが、そもそも現状を根本的に転換する術があるのかどうかもよくわからないのである。だからといって自ら人生を終わらせるほどの度胸を持つこともできそうにない。そうであるとすれば、いつまで続くかわからないこの日々とそれに伴う苦痛を、どうにかこうにか和らげていくしかないように思う。

ランニングをした時に思いついた下手な例え話なのだが、私のような考え方をしている人間の人生には「雪」が降り続いていると考えることができるかもしれない。この「雪」はあらゆる負の感情・思想であり、降り止むことは決してない。「雪」は自らの意思とかけ離れたところで発生し、自分が望むか否かに関わらず地に降り積もる。「雨」ではなく「雪」の例えを用いたのは、降り止まない「雪」は除雪する者がいない限り積もり続けるからである。私にできるのは、降雪を止めることではなく、適度に雪掻きをすることだけなのかもしれないと思っている。もう長いこと、どうしても後ろ向きな発想しかできないことに苦しんだり、前向きな人間を羨んだりしてきた。自分の生き方や考え方そのものが負の感情を生む元凶であることに気付く一方で、それを180°転換するのが恐らく不可能であることにも気付いていた。だからいい加減、事あるごとに性格や思想傾向といった自分の変え難い部分に原因を求めることをやめたいと思う。といってもいきなりは難しいだろうから、できそうなところから少しずつという具合に。

私にはつまらない厭世観がある。陳腐な消滅願望がある。安っぽいが希死念慮もある。そしてそれらを私の人生から完全に消し去ることは恐らく不可能だと思う。だから、自分の手でそれらに靄をかけてしまえる方法をひとつずつ探していく。格好を付けているが要は逃げ道を沢山用意するということだ。全てが嫌になった時にその感覚を薄める術を探す。積もったストレスを一時的にでも掃き捨ててしまえるような「雪掻き術」を見つける。そんな風にしてのらりくらり、騙し騙し、逃げながら過ごしていこうと思う。

インド神話

は?とお思いのことと存じます。

これまで仄暗い部屋の隅でブルーライトに炯々と目だけをギラつかせながら怨念渦巻く記事を綴り上げてきたというのに、この期に及んでこの無駄にスケールのデカいタイトル設定は一体全体どういう風の吹き回しだと。

単刀直入に申し上げて暇潰しです。私事ですが睡眠サイクルが著しく乱れているので今夜は寝ずに一晩を明かそうと試みています。眠気を十二分に蓄え今日の晩は音速で床に就こうという寸法です。

秋の夜長とはよく言われますが、日の長い初夏の夜とて寝ずに過ごすにはいささか長過ぎるのです。そこでインド神話というわけです。インド神話と夜の長さには毛ほどの関係もありませんが、ちょうど昨晩、いつものようになすべきことを全て放って書を開きインドの神々に思いを馳せていたところであったので、ここはひとつそのあらましを記事にでも書き起こして退屈を凌ごうと思い立ったわけです。ジメジメとした非生産性の結晶とも言うべきこのブログの閑話休題にカレー香るインドの風を吹き込んでみたいと思いますので、同じように暇を持て余している方、暇ではないけど暇な方、ちょっと面白そうかもなと思ってくださった方、並びにインド人の皆様、よければひとつお付き合いください。

 

さて長すぎる前置きもこれくらいにして本題に入ろうと思います。今日ご紹介いたしますのは、古代インドの大叙事詩ラーマーヤナ』です。ハイスペックなラーマ君が美女シーターを手に入れ、勢いそのままに王位に就こうとしますが…?王の苦悩に渦巻く嫉妬。揺れる恋心。神と悪魔と人間が織り成すスペクタクル。次代の王は一体誰なのか。世界に平穏は戻るのか。友情、努力、勝利のジャンプ的展開にもご注目ください。それでははじまりはじまり。

 

舞台はかつてガンジス河中流に位置したとされるコーサラ国。この国の王ダシャラタには3人の王妃がいたそうです。幸せそうで羨ましいなぁ。数千年後の怠惰な若者から向けられる羨望の眼差しをよそに、王は苦悩を抱えていました。妻を3人も娶っておきながら、後継者に恵まれなかったのです。控えめに言ってもこれはまずいということで、王はせっせと祭儀を催しました。子が生まれますようにと神様にお願いしたわけです。するとたちまち3人の王妃から4人の王子が生まれたそうな。凄まじい霊験ですね。

カウサリヤーという王妃からはラーマが、

カイケーイーからはバラタが、

スミトラーからはラクシュマナとシャトルグナという双子が

それぞれ生まれてきたそうです。どうでもいいですが馬鹿みたいに名前がややこしくないですか?インド神話、こんなのばっかです。もう王の名前忘れましたね。ダシャラタですね、ダシャラタダシャラタ。

4人の子の中でもとりわけラーマは文武両道のイケイケだったそうです。王家に生まれ、勉強もでき、武術も堪能。さぞかし陽キャに育ったことと拝察します。その上このラーマの誕生にはやんごとない背景が存在します。

所変わってこちらは天上界。神々が楽しく暮らしていたところに、それをよしとしない悪魔の王ラーヴァナが乱暴をしにやってきます。ちなみに悪魔の一団はラークシャサというらしいです。混乱が加速するのでもうやめてほしいです。

悪魔王ラーヴァナの悪事に思い悩んだ神々は、神の一柱、ヴィシュヌにお願いをします。

「悪いけど人間界に生まれ直してラーヴァナ倒してもらってもいい?」

いや神として戦った方が明らかに強いだろとつっこみたくなりますが古代インドでは少し事情が違うようなので飲み込みます。

かくして、ヴィシュヌは人間界に降り立ちます。人間として。察しのいい方はもうお気づきかもしれませんが、何を隠そう、ラーマこそがこのヴィシュヌの人間としての姿だったのです。陽キャどころの騒ぎではなかったわけです。神ですので。

その後すくすくと育ったラーマは、ある日、ヴィデーハ国という国の王の娘シーターを嫁にせんとして婿選びの競技会に参加します。外国まで行って妻を娶らんとするラーマもラーマですが、婿を選ぶために謎の競技会を開催するシーターもシーターだなと思います。どうせこいつも陽なのだろうなと思いましたが、案の定絶世の美女とのことで溜息が出ました。因みに競技会の名前はスヴァヤンヴァラというそうです。もういいです。

ラーマは持ち前のスペックの高さで競技会を勝ち抜き、シーターをものにします。ラーマの勢いは留まるところを知らず、遂に王の後継者となります。しかしこれに眉を潜めたのがカイケーイーです。誰ですか?王ダシャラタの3人の王妃のうちの1人です。カイケーイーはダシャラタを言いくるめて無理矢理息子バラタを王位に就かせます。肝っ玉母ちゃんの一世一代の大勝負は成功だったようです。そればかりか、14年間に渡ってラーマを国から追放するという強情さを発揮します。これを悲しんだのが新王バラタでした。バラタはラーマ不在の間、玉座には就かず彼の帰国を待ったそうです。母に似ずいいやつですよね。ちなみに王ダシャラタはこの一件を悲しみすぎて亡くなったそうです。あまりにも唐突すぎる死。仮にも一国の主がたった一行で死なないでくださいよと言いたくもなりますがこの世は無情です。

さてさて、国を追われたラーマは妻のシーターと、兄を慕ってついてきたラクシュマナとともに森に入り、悪鬼の退治に勤しみました。これに対し悪魔王ラーヴァナはブチ切れます。そしてそれと同じくらい激しくシーターに恋をします。悪鬼の王とは思えぬ情緒の忙しさですが誰かを愛する心に人間と悪魔の別は無いということでしょうか。惚れた女を手に入れるべく、ラーヴァナは恋路に邁進します。手っ取り早くラーマとラクシュマナを罠にかけ、その隙にシーターを誘拐したのです。その後、彼はランカー島という現在のスリランカ(インドの南側にある島国)に当たる場所にある自らの王宮にシーターを閉じ込めてしまいます。

一方、シーターを奪われたラーマも黙っていません。彼はシーターを探す旅に出ますが、その途上で猿と仲良くなります。猿と言ってもただの猿ではありません。猿の王スグリーヴァ、それから猿の勇士ハヌマーンです。ラーマの事情を知ったハヌマーンはよしきたとばかりにランカー島に偵察に向かい、そこでシーターが囚われているのを発見します。そうとわかれば話は早いということで、すぐに猿の軍団が結成され、ランカー島への架橋が行われました。手際の良さに感嘆するばかりです。この話の中で一番頭がいいのはもしかしたら猿かもしれません。

橋が完成するが早いか、一行は一挙にランカー島に攻め込みます。しかし相手は悪鬼の一団とその王たるラーヴァナ。ことはそう容易には運びません。激しい戦闘の中でラーマ達は重傷を負ってしまいます。そこで猿の勇士ハヌマーンは手近な山へひとっ飛びし、薬草の調達を試みます。ハヌマーン、やたらよく飛びますが羽が生えてるんでしょうか。猿ですよね?

ハヌマーンの試みも虚しく、薬草は既に隠されてしまっておりとても見つけられませんでした。そこではいそうですかと諦めないのが勇士ハヌマーン。彼はそれならばと山頂を丸ごと戦場に持ってきます。山頂を、丸ごと。猿ですよね?

かくして薬草による治療を施されたラーマ達は勢いを取り戻し、ラーヴァナの軍勢を打ち破ってシーターを取り戻したとのことです。

戦いの後、ラーマはシーターとともに凱旋し、晴れて王位に就きます。ここでめでたしめでたしと終わってくれたらよかったのですが、そうは問屋が卸しません。ほどなくして民衆の間にシーターの貞節を疑う者が現れたのです。今も昔も人はゴシップが大好きみたいです。シーターの黒い噂はたちまちのうちに人々の間に広がり、やがてラーマの知るところとなりました。これを聞いたラーマ、是非とも根も葉もない噂を一蹴する気概を見せてほしいところでしたが、あろうことかシーターを捨てます。

その後、ラーマはシーターやその子と再会することがあったそうですが、やがてシーターは地上から姿を消してしまったそうです。

 

うーん。なんとも後味のすっきりしない終わり方ですが、以上が『ラーマーヤナ』のあらすじです。後継者をめぐるダシャラタの苦悩と天上界の懊悩、更には継母カイケーイーの嫉妬に悪魔王の淡い恋心、猿の友情、民衆の猜疑心。登場人物の思惑が複雑に交錯するなんとも人間らしい物語だなぁと思います。神話という言葉にはあたかも神々の神聖な物語であるかのような響きが漂っていますが、その内実は人間臭いものであったりすることが往々にしてありますね。その意味では『ラーマーヤナ』も神話らしいと言えるのかもしれません。真面目に読んだらちょっと笑ってしまうような内容でも、インド宗教のある宗派ではこれが神聖視されていたりして、そこにまたおもしろさを感じませんか?

ちなみに、大活躍だった猿の勇士ハヌマーンについて少し付け加えると、悪鬼の軍勢と戦う際に、薬草のためだけに運んできたドデカい山頂部はその後ハヌマーン直々にもとあった場所に返したそうです。めちゃめちゃ律儀でかわいいですよね。味方を癒すために山を運んできて、用が済んだらちゃんと後片付けも忘れないハヌマーン、好きです。

今回の記事は以上です。お付き合いいただきありがとうございました。またいつか似たようなことをやるかもしれませんし、やらないかもしれません。

泥舟

思考に占める憎悪の割合が日増しに肥大する。

溢れる憎しみに脳味噌がとっぷり浸かっているような感覚がある。渦巻く憎悪に絡め取られて一歩も動けない。

この憎悪の大半は社会に対するものではない。この社会に対する違和感や嫌悪感も勿論あるが、それ以上に自分の異常性に耐えられない。止め処なく溢れる黒々とした感情の真の矛先は他ならぬ自分自身だ。自分が許せない。自分が嫌いで嫌いで仕方ない。気が触れてしまいそうだ。既に正常な思考は叶わないのかもしれない。

なぜこんなにも無力なのだろう。無気力なのだろう。刻々と過ぎゆく時の中でいつまで地団駄を踏んでいるのだろう。どれだけ言い訳を重ねれば気が済むのだろう。

意志が弱く、希望の持ち方も知らず、斜に構え、一見自責的なようでその実他責的で、言い訳がましく、自己中心的で、逃げと諦めを御家芸のように繰り返し、泣き言恨み言で日々を埋め立て、強者を妬み、成功者を嫉み、馬鹿の一つ覚えのように死を口にする割に行動に移す訳でもなく、朝が来なければいいなどと寝言を宣いながら、翌日の午後には差し込む西陽で目を覚まし、腹が減れば満たし、喉が渇けば潤し、結局生きることへの執着を克服できず独り惨めさに打ちひしがれている。そんな毎日を恥じながら今日もまた同じ1日を過ごす。

これが2年も前に成人を迎えた人間の姿だというのだから我ながら驚く。身も心もとうに大人になっていなければならない年齢だというのに、年相応の考え方も振舞いも満足に出来ない。そんな自分がとにかく許せない。しかし一方で「大人」とは何なのか、「年相応」とはどのような状態を指すのか、その曖昧さに戸惑ってもいる。ただひとつ自分が幼稚であるという確かな事実に打ちのめされては、進むべき方向もよくわからないまま現状を否定することに終始している。ひたすらに自分を嫌い、憎んでいる。

 

個人的には、自分を嫌う気持ちはそれ自身では必ずしも悪い感情とは言えないと思う。努力は自己の現状を否定することと背中合わせであるという話を聞いたことがある。そうであるとするなら、自分を嫌う気持ちは、時として、あるいは人により、努力のカンフル剤へと昇華することもあるはずだ。その場合、自己嫌悪や自己否定は努力やそれがもたらす人間的成長の母体として機能することになる。これはいいことだと思う。

問題なのは自身を嫌悪する感情が自己完結してしまう場合。その実例こそが他ならぬ自分だ。自分の場合、上に挙げたような自己嫌悪の昇華は起こり得ない。なぜなら、自分自身と同じくらい、あるいはそれ以上に辛いことや苦しいことが嫌いだからだ。自分を憎み、他方で努力を厭い、結果として徒らに自分を責め続けるだけの日々が生まれる。己を肯定することが出来ず、かといって完全に否定することもできないまま自責という手軽な手段に逃げるだけの毎日。「自分を許さない自分」という存在を自己の中に作り出して自我を保ち、偽りの安寧に胡座をかいているに過ぎない。なぜならそれが楽だから。わかっている。それすらもわかっているし、そんな自分もやはり嫌いなのだが、それに歯止めを掛ける努力にはどうしても踏み切れない。このような負の永劫回帰を何度も何度も繰り返している。自分のことを嫌い、それ以上に自分自身を好きになるために労力を割くことを嫌う人間が行き着くのは、もしかしたら一種の自己肯定なのかもしれない。自己否定が自己肯定であるという主張は矛盾しているようにも思えるが、これは逆説だと思う。私の思考を要約するなら「努力するくらいならこのままでいいや」という具合になる。これは大嫌いなはずの自分自身を中途半端に肯定している状態であるとも言えると思うのだ。

このような非生産的な習慣が生活に、思考に、深く根を張っている以上、今後何もせずに事態が好転することはまずないだろう。それどころか20を超えた今、肉体は日々僅かではあるが老いへと向かい、将来の選択肢も日毎に閉ざされていく。座して自責に耽る生活がもたらすのは現状の悪化とその先に待つ不可逆的な生活破綻だ。これほど恐ろしい未来を視線の先に明確に捉えてなお、私は自らの人生の舵を取れないでいる。することといえば決まって自分を呪うことばかりだ。恐らく自分は血の通った自壊装置なのだと思う。一路破滅に向かって歩む発条仕掛けの人形のようなもので、きっと破滅を迎えるその日さえ、身を持ち崩した自分自身に対し呪詛を吐きながら露頭に迷い死んでいくのではないだろうか。"人生の舵を取れない"と言ったが、この船にはもはや面舵も取舵もない。しんしんと降り止まぬ希死念慮とどす黒い怨念の潮の合間で、座礁か沈没かを待つだけとなった難破船こそが自分の姿なのではないかと思う。

不知火

喉が渇いた気がするからコンビニに行く。

リュックの底の財布を漁り、よれたパーカーを羽織る。イヤホンを耳に押し込んで聴き慣れた音楽を再生する。外界の音が流れ込んでこないように、音量は気持ち大きめに。マスクだって忘れない。醜い顔を隠せるから好都合なんだ。上着もマスクもイヤホンも、身につけていると世界と自分を紙一重で隔ててくれるような気がして少しだけ安心する。履き古した靴を足にかけ、爪先で地面を蹴りながら玄関を出る。雨後の冷気が心地良い。

仲睦まじく街を行く恋人達の後ろを独り歩くとき、自分の過去や未来に思いを馳せる癖がある。今晩の2人は互いに大事そうに手を握って笑い合っていた。女の子の足取りの軽さは10m後ろの私の両脚の重りになった。

恋とか友情とか家族とか、よくわからないまま人生の幕が下りるんだろうな。そんなことを考えながら赤信号を眺めていた。前の2人との間にある10mを、自分は埋めることができないのだと思った。信号が変わる。歩き出した2人が自分から離れゆくのを私は数瞬待った。少しだけ歩調を落とす。耳に流れる音量を2つ上げてイヤホンをきつく押し込む。

2人がコンビニに吸い込まれていくのを見ながら、できるだけ早く帰ろうと思った。入店のチャイムを鳴らす頃には喉の渇きも朧になっていた。何を買いに来たんだっけ。何かが欲しくて、それが何かを知りたくて店内を回る。さっき見たばかりの菓子売り場でまた迷っている。欲しいものが多くて迷うんじゃない。欲しいものなんてないとわかっているのに、何かを見つけられる、いや見つけなければと、自分の欲求に迷っている。

結局、求めるものはわからないまま、なんとなく目に入ったミルクティーと30円程のチョコレートをひとつ、袋に提げて店を出る。気付けばいつもこんなことをしているような気がする。家の照明では明かりを感じられなくて、真夜中のコンビニの曖昧な電灯を求めてしまう。そこに行けばなんでもあるような錯覚をずっと捨てられないでいる。

帰り道も赤信号に足が止まる。車も人もない。自分と赤信号とがあるだけの空間で、私はなお足を動かすことができない。これが倫理観だと言うなら、早く捨ててしまいたくなった。ルールとかマナーとか、そんなものは社会とよろしく付き合っていける人達のものであればいい。社会を認められず、社会からも認められない私が、何を律儀にルールを抱きしめ信号を守っているのだろう。くだらぬ思考の終わらぬ内に青信号に歩みを急かされた。

外気から私を隔ててくれる耳元の音楽も、誰もいない自室の中ではあまりにも鬱陶しい。コードを引っ張って剥がすようにイヤホンを外し、一息ついてチョコレートをかじる。ミルクティーで流し込む。美味しくはない。甘ったるさが口腔の内外に纏わりついて少し後悔する。私は200円弱で仄かな憂鬱感を買って帰ってきたらしい。

大変なこと、悲しいこと、悔しいこと、恨めしいことばかりが自分の人生を占めているように思う。楽しいことや嬉しいことが全く無いわけではないけれど、苦しいことが日々のささやかな幸せを隅に追いやってしまう。そうして知らぬ間に幸せを幸せとも感じられなくなって、憂鬱だけを噛み締める毎日に陥る。

人生を肯定できなくなった自分は、傍から見れば些細な問題に躓く度、曇った目で先を見渡して、行く先に横たわる無数の段差や落とし穴を憂いては生きることを逡巡するようになった。

しかし、同じ躊躇いを何度繰り返しても、自ら人生に終止符を打つ選択肢に手をかけることはできない。それに伴う苦痛が怖くて仕方がないからだ。きっとこれからも押し問答を重ねながら、答えを出すことを保留して肉体に引き摺られるように生きながらえるのだと思う。

だから今日は少し思い切って、どう生きるべきかを考えてみたい。死ぬことができぬまま生きていく私は、いつか晴れて生を手放すことが叶うその日まで、どうやって時間を潰していくべきだろう。

死という選択肢を取れず、結果として何が何でも生きなければならないとしたら、私はどう生きたいか。その問いにあえて答えるとするなら、私は「とにかく楽に生きたい」と答える。苦痛から可能な限り解放された生を享受したい。

ではどうすれば、苦しみから逃れることができるのか。それを考える為には、自分が抱えている苦しみが具体的に何であるのかを明確にする必要がある。

私が感じる苦痛の多くは精神的なものなので、まずはそれを分解してみる。

自分にとっての精神的な苦しみは、悲しみや怒りを感じること、劣等感に苛まれること、恨めしさに絡め取られること、焦燥感に駆られること、憂鬱に襲われること。他にもあるような気がするけれど、大まかにはここに挙げたものに収束するように思う。

これらを手放すにはどうすればいいのだろう。これらの感情の原因になるものはそれこそ無数に存在するのだから、事に及んで対症療法的に向き合っていてもきりがない。一度に全てを解決しようとするなら、感情が生まれてくるところを特定してそれを取り除かなければならない。これらの感情の母体として機能しているもの、それは「期待」なのではないかと思う。

例えば、友人に裏切られた時に生じる悲しみや怒りは「その友人は裏切らない」という期待があるからこそ感じるものだと思う。「その友人は必ず自分を裏切る」と確信していれば(そんな人間を友人と呼ぶか否かは別として)、裏切られた時に特別な感情は生まれないのではないか。仮に悲しみや怒りが生じても、「裏切らない」という期待を抱いている場合と比べればその度合いはずっと小さく済むのではないか。恨めしさについても全く同じことが言えると思う。

劣等感も同じで、他者に対して自分が劣っているという感覚やそれに付随する苦しみは、「他者と同水準かそれよりも高い水準にある自分」への期待に起因するものではないかと思う。空を飛ぶことができるか否かという観点においては明らかに鳥に劣る自分が、鳥類に劣等感を抱かないのは、種の違いを事実として認識すると同時に自力で空を飛ぶことを諦めることができているからだ。"種の違い"というのは何も生物学的な分類に限らず、人間というカテゴリーの中にも応用できると思う。異なる親のもとに生まれ、異なる教育を受け、異なる環境の中で異なる能力や人間性を獲得した2人の人間を必ずしも同じ種類の存在であると見なす必要はないのではないか。

憂鬱感に関しては、訳もなく気が沈む日もあるから全てを一括りにして語ることは難しいけれど、それでもやはり「期待」がその根底にある場合は決して少なくないと思う。自分や他者、それらを取り巻く周囲の物事に関して、自分の思う「あるべき姿」や「理想の姿」という一種の期待があればこそ、それと乖離した現実に憂鬱や億劫を覚えるのだと思う。

こう書いておきながら、「ああでも、明日のバイトが憂鬱なのは別にバイト先に期待があるからではないな」と思った。憂鬱にはいろんな種類があるな。ここまで書いてきたことにも一気に自信がなくなってきた。

焦燥感にも憂鬱感と似たところがあるように思う。「あるべき姿」「理想の姿」というのがそれで、「卒論を進めなければ」「就職しなければ」という焦りは、大学生として、あるいは社会に生きる1人の人間として「社会から承認を得られるだけの水準を満たせる」という期待が多かれ少なかれ自分の中にあればこそ生まれるものなのではないだろうか。「卒論は絶対に書けないから退学するしかない」「就職は不可能だから森で暮らすしかない」という確信が真にあるとすれば、この種の焦りに囚われることはないと思うのだ。

ともかく、あくまでも自分の場合だけれど、精神的苦痛を減じる為にはあらゆる「期待」を放棄する必要がありそうだ。20年以上生きてきて、いろいろな物事に対して数え切れないほどの期待を抱いてきた自分に果たしてそんなことができるだろうか。もはや潜在意識にまで刷り込まれているであろう期待を、時間がかかるにせよどうすれば取り除いていけるだろうか。そう考えた時に浮かんだ案がひとつある。

それは「全ての物事の成り行きは決まっている」と信じること。なんだか宗教臭くて怪しい感じがするけれど、考えてもみれば何かしらを信じずして生きることなどできないと思う。科学を信じることすら結局は信仰の域を出ないのだから。

話が逸れたが、物事の成り行きが予め決定していると信じることができれば、多少は「期待」から自由になれるような気がする。仮に期待を持ってしまいそれが裏切られたとしても、それも予定調和なのだと割り切ることができるのではないかと思うのだ。

全てが決まっていると信じることは、「自分の人生を自分で決められる」という考えが錯覚であると信じることだ。人生は自分の意思に関わらず進んでいく。どれだけ情熱を注ごうが、等閑に生きようが、成功も失敗も全ては自分の与り知らぬところで決まっている。それを決めるのが神か鬼かはどちらでもいい。ただただ不可抗力の連続がそこにあるだけなのだと信じる。難しくても、信じる。

全ては不可抗力なのだから努力からも解放される。怠慢によって身に降りかかる災難も苦難も全てははじめから決まっていたことなのだと信じる。努力するか否か、それができるか否かすら、予定されているのだと信じる。

それができれば全てを諦められると思う。目の前の他者でも、理不尽な社会でもなく、それらを運命付ける「予定調和」に全ての責任を転嫁すれば、不必要に恨みや悲しみを感じることもない。誰かを責める意味もない。私を裏切るあの人も、私を受け入れない社会も「予定通り」を演じているに過ぎないのだから。

私が生まれた22年前のあの日から、あるいはそれよりももっとずっと前から、きっと私の人生とその終わり方は事細かに決まっているのだ。決まり切ったこの人生、如何なる主体的選択もなし得ないはずの人生だと思えば、今日は何を食べようか、何時に寝ようかと迷うことができる自由に小さな幸せを見ることができるような気がする。きっと本当はそれすらも決まっていて、私は自由の夢を見ているに過ぎないのだろうけれど。

それがきっと、今の自分にできる一番楽な生き方だと思う。

自己分析

珍しく手持ち無沙汰に耐え兼ねるので、自己分析でもしてみようと思う。

そもそも私は、就活の為の自己分析というものをまともにしたことがない。なぜなら、就活用の自己分析には少なからず「社会における自らの有用性・有益性」を炙り出すものとしての側面があると考えているからだ。二十余年の短い人生において、ひたすらに労を厭い、易きに流れてきた自分には、社会から歓迎されるような人間性や能力はひとつとして無い。そうであれば、いわゆる自己分析をしてみたところで社会人としての強みなどと銘打って語れるものが出てくるはずが無く、特定の企業に従事する必然性を訴える為の土台となるような自己の存在が浮かび上がることなど期待できるはずもない。自分のような無益な人間が、周囲との足並みを揃えようと焦って自己分析に励んでも、浮き彫りになった薄っぺらい自己と周囲との差に慄然として悪夢にうなされるのが関の山だ。

ではなぜこの期に及んでそんな無駄に興じようと思い立ったのか。正直なところ、特別な理由はない。ただの気まぐれだ。理由で行動が起こせるような人間でないのだから、行動原理はいつだってこの胸の気分ひとつなのだ。どうせ無駄な人間の無駄な人生だ。なすべきことを放棄して作り出した偽りの閑暇に、無駄をひとつ加えたって今更誰も咎めないだろう。

長過ぎる前置きもこれくらいにして、自分(笑)を暴いていくことにする。

 

人格について

何だこの茫漠としたテーマは。自分で設定しておいてなんだが、あまりにも射程が広くて捉えきれない。幸先が悪過ぎる。足掛かりにでもなればと、ひとまず"人格"の辞書的な意味を調べてみる。

 

人格(読み)ジンカク


㋐独立した個人としてのその人の人間性。その人固有の、人間としてのありかた。「相手の人格を尊重する」「人格を疑われるような行為」
㋑すぐれた人間性。また、人間性がすぐれていること。「能力・人格ともに備わった人物」
2 心理学で、個人に独自の行動傾向をあらわす統一的全体。性格とほぼ同義だが、知能的面を含んだ広義の概念。パーソナリティー。「人格形成」「二重人格」
倫理学で、自律的行為の主体として、自由意志を持った個人。
4 法律上の行為をなす主体。権利を有し、義務を負う資格のある者。権利能力。

人格(ジンカク)とは - コトバンク

自己分析を進める上では恐らく1-㋐あるいは2の意味合いでこの語を解釈するのが最良だろう。"人間性"、"人間としてのありかた"、"行動傾向をあらわす知能的面を含んだ性格"。これでもまだ漠然としているが、あまり字数をかけて論じると主題を見失ってしまいそうなので、「主に性格と価値観によって構成される性質および行動傾向の形成因子」とでも捉えておくことにする。

まず性格について。自分の性格を問われて最初に思い浮かぶのは「暗い」ということだろうか。暗さにもいろいろあるので、自分の暗さについて思い当たる要素を書き出してみる。

  • 基本的に物事が上手く運ぶとは考えない
  • 人と話すことが好きではない
  • 生活に憂鬱を感じている

これらを見ると、自分の性格は「悲観的」「内向的」といった性質も含んでいると考えられる。

 

飽き性」というのも自分の性格の主たる部分を占めているように思う。そもそも何かに熱中することがほとんど無いが、例え何かに関心を持ったとしてもとにかく続かないのだ。今日湧き上がった情動を明日覚えている自信すらない。三日坊主という言葉が褒め言葉になる程の飽き性である。

それに輪を掛けて私は自分でも引く程に「諦めが早い」。能力に乏しいという確固たる事実に裏付けられた自己効力感の薄さも手伝って、何でもかんでもすぐに諦めてしまう。だってどうせできないから。何をするにしても、達成・完遂の見込みが無いのであれば続けるだけ無駄だと思う。"過程に意味があるのだ"という高尚な金言を聞いてできた耳のタコの数は計り知れないが、正直馬耳東風だ。目に見えぬ成長を妄信して身体に鞭打ち努力を続けるくらいなら、はじめからずっと寝ていたい。

ここから「自己効力感が薄い」「完璧主義」「怠惰」「言い訳がましい」といった性質も浮かび上がってくる。

 

それから私は争いが好きではない。と言っても、平和を希求する博愛の徒というわけではない。「事なかれ主義」なのだ。波風が立ったり、他人から嫌われたりすることが怖くて仕方ない。だから角が立つ発言は好まない。なんとなく、当たり障りなく、事が運んで欲しいと願ってやまない。その割には就活アドバイザーへの恨み言が多いことに自分でも少し驚くが、これは心の底から嫌悪する存在に対して理性を働かせる力が弱いということなのだろう。と、ここまで書いて思い直したが、事なかれ主義という姿勢をとるのはひとえに楽だからであって、理性を働かせる事ができるからではない。好き嫌いに関わらず「理性が貧弱である」というのも私の性質のひとつだろう。

争いを好まないことに関連してもう一点、「競争が嫌い」というのも偽らざる私の性だ。他人と競って優劣をつけるという営みをするのも見るのも嫌いなのだ。恐らく長い学校生活の中で常に"劣"の側にいた人間としての防衛機制のようなものなのだろうと推測するが、競争に晒されたり、それを目にしたりすると疲れて仕方がない。心身を削って争うくらいなら甘んじて負けを受け入れる、筋金入りの敗北主義者だ。

 

うじゃうじゃと湧き出る不毛な性格の全てを網羅するのは恐らく不可能だ。区切りをつけるためにも、次で最後にしようと思う。ここまで、私の性格の中核を成している要素を忘れていた。「劣等感」だ。私が人様に対して"強い"という言葉をもって表現できる自らの要素はこの劣等感と、それから希死念慮くらいではなかろうかと思う。劣等感は私の核だ。本当は"感"などという感覚的で曖昧な言い方はしたくない。私は自らの劣等を確信しているからだ。人間として明らかに劣っていることを日々痛切に感じながら生きている。感じているだけでそれを補おうと努めないところに私の致命的な欠陥があるのだが。劣等感は絶え間なく私の精神を削り続ける。どうにかして逃れたいと思いながらも努力をしない/できない自分はこの苦痛に身を委ねるほかない。

私は劣等感は劣等感そのものとして独立するものではないと感じている。この感覚の根本には、何か別のものがあるのではないかという予感がある。確信こそ無いが、それは「負けず嫌い」なのではないかと思う。そもそも、劣っているという厳然たる事実が単体で劣等感を生むことはないと思うのだ。どれほど劣等を自覚していたとしても、持ち前の諦め癖が正常に機能すればすぐに割り切れるはずなのだ。「ああ自分は何もできないのだな。まあでも仕方ないか、自分だし」という具合に。それを困難にしているものこそ、負けず嫌いという性質なのではないかということだ。この性質は「争いを好まない」上に「諦めが早い」はずの自分の性格に一見大きな矛盾を生んでいるように見える。しかしその実、これらの性格は歪な調和を生んでいる。

まず、「争いを好まない」のに「負けず嫌い」とはどういうことか。恐らく、他人に対して、常に優位でありたいということだ。「他人との争いの余地がない程に圧倒的に勝っている状態」に身を置きたいというのが自分の隠された願いなのだろうと思う。

続いて「諦めが早い」のに「負けず嫌い」。これは、突き詰めると「努力をせずに勝ちたい」という欲求に辿り着きそうだ。

総合すると、「努力をせずに、他の追随を許さない程圧倒的優位に立ちたい」という具合になろう。文字にすると白昼夢でも見ているのかと自分の頭を張り倒したくなるが、この恥ずべき思想が自分の性格に溶け込んでいるのだろうと思う。

 

ここまで長々と自分の性格について考えてきたが、要約すれば、「陰鬱に感けて希望を捨て、何かを続けようという意志も継続力も持たず、自らの能の無さ故に"完璧"を実現できないことを言い訳に行動を起こすことからも逃げ、面倒事を嫌っては面従腹背に徹し、勝てないからとあらゆる競争を放棄する一方で負け続けることへの劣等感で勝手に摩耗し、労せず人よりも優位に立ちたいなどとごねる夢想家」ということになる。本当に救いようがないのだ。

 

当初はひとつの記事で自己分析を完結させるつもりでいたのだが、人格の分析だけで想定外の文量に達してしまったので、残りはまた気が向いた時にでも少しずつやっていくことにする。人格以外の項目として考えているのは「好き/嫌いなモノ・人」「就活の軸」「人生観」「強み/弱み」「モチベーションが上がる/下がる時」「得意/苦手なこと」「今までで一番頑張ったこと」「成功/失敗体験」だ。どこに自己分析を連載するブログ運営者がいるのかと我ながら滑稽ではあるが、全て暇つぶしの自己満足なのでまあいいかと思う。

思案を巡らせて少し疲れたので夜風に当たることにする。

「疲れた」という独り言で我に返ることが増えた。

以前と比べて行動量が増えた訳でも密度が増した訳でもない。ただ、しなければならないことが日々静かに募っていくのを、見ているだけ。

目の前の課題ひとつ、手をつける気力もない。

そんな毎日が続く。課題はしんしんと積もる。

昨日の分と今日の分。

2つの課題に手をつけるのに必要な労力は、1つの課題に手をつけるときの労力に2をかけたものと等しくはならない。それよりもずっと大きい。また今日もできない。

激しい自己嫌悪が身を灼く。

劣等感が心の腐食を進ませる。

課題ひとつをこなすにも事足りない気力が、惰眠によって、休息によって、更に削られていく。

なすべきことをやり遂げるために必要な気力と、自分の余力の差が加速度的に開いていく。

時計を見る。もう4時間もこうしている。

Twitterを開く。今日も誰かが内定を得た。

布団とネットに憑かれたまま、また1日が終わっていく。

寝たところで疲れは取れない。

食べたところで気力は湧かない。

それでも眠くなるから寝てしまうし、腹が減るから食べてしまう。

命を繋いだところで同じ日々が続くだけだとわかっているのに。

一体自分は何をしているんだろう。

摩耗を続ける精神がいつか底を突いて、生命の維持すら叶わなくなるその日までの延命治療みたいな毎日だ。

この人生は、死んだように天井を見つめる人間の余命を延ばすためにあるんだろうか。

何も生まない人間を生かそうとしてしまう本能が、生きたいと願う潜在意識が、心の底から憎い。

実際、もう最近は"何も生まない"どころではない。

自己嫌悪が社会への憎悪にすり替わって口をついてしまう。

この社会の全てが憎い。法も文化も人間もどうにかなってしまえと思う。なによりも、一切の益を生まずただ世界を呪うことだけに若さを費やす罪人を、この国は殺してくれない。それが恨めしくて仕方ない。これが自死を選ぶ度胸を持たない意気地なしの逆恨みだということはとっくに承知している。だから尊厳はいらない。自由もいらない。脳味噌だけが無駄に発達してしまったこの畜生を、早く惨めに葬ってくれ。もう本当に疲れたんだ。