大変なこと、悲しいこと、悔しいこと、恨めしいことばかりが自分の人生を占めているように思う。楽しいことや嬉しいことが全く無いわけではないけれど、苦しいことが日々のささやかな幸せを隅に追いやってしまう。そうして知らぬ間に幸せを幸せとも感じられなくなって、憂鬱だけを噛み締める毎日に陥る。

人生を肯定できなくなった自分は、傍から見れば些細な問題に躓く度、曇った目で先を見渡して、行く先に横たわる無数の段差や落とし穴を憂いては生きることを逡巡するようになった。

しかし、同じ躊躇いを何度繰り返しても、自ら人生に終止符を打つ選択肢に手をかけることはできない。それに伴う苦痛が怖くて仕方がないからだ。きっとこれからも押し問答を重ねながら、答えを出すことを保留して肉体に引き摺られるように生きながらえるのだと思う。

だから今日は少し思い切って、どう生きるべきかを考えてみたい。死ぬことができぬまま生きていく私は、いつか晴れて生を手放すことが叶うその日まで、どうやって時間を潰していくべきだろう。

死という選択肢を取れず、結果として何が何でも生きなければならないとしたら、私はどう生きたいか。その問いにあえて答えるとするなら、私は「とにかく楽に生きたい」と答える。苦痛から可能な限り解放された生を享受したい。

ではどうすれば、苦しみから逃れることができるのか。それを考える為には、自分が抱えている苦しみが具体的に何であるのかを明確にする必要がある。

私が感じる苦痛の多くは精神的なものなので、まずはそれを分解してみる。

自分にとっての精神的な苦しみは、悲しみや怒りを感じること、劣等感に苛まれること、恨めしさに絡め取られること、焦燥感に駆られること、憂鬱に襲われること。他にもあるような気がするけれど、大まかにはここに挙げたものに収束するように思う。

これらを手放すにはどうすればいいのだろう。これらの感情の原因になるものはそれこそ無数に存在するのだから、事に及んで対症療法的に向き合っていてもきりがない。一度に全てを解決しようとするなら、感情が生まれてくるところを特定してそれを取り除かなければならない。これらの感情の母体として機能しているもの、それは「期待」なのではないかと思う。

例えば、友人に裏切られた時に生じる悲しみや怒りは「その友人は裏切らない」という期待があるからこそ感じるものだと思う。「その友人は必ず自分を裏切る」と確信していれば(そんな人間を友人と呼ぶか否かは別として)、裏切られた時に特別な感情は生まれないのではないか。仮に悲しみや怒りが生じても、「裏切らない」という期待を抱いている場合と比べればその度合いはずっと小さく済むのではないか。恨めしさについても全く同じことが言えると思う。

劣等感も同じで、他者に対して自分が劣っているという感覚やそれに付随する苦しみは、「他者と同水準かそれよりも高い水準にある自分」への期待に起因するものではないかと思う。空を飛ぶことができるか否かという観点においては明らかに鳥に劣る自分が、鳥類に劣等感を抱かないのは、種の違いを事実として認識すると同時に自力で空を飛ぶことを諦めることができているからだ。"種の違い"というのは何も生物学的な分類に限らず、人間というカテゴリーの中にも応用できると思う。異なる親のもとに生まれ、異なる教育を受け、異なる環境の中で異なる能力や人間性を獲得した2人の人間を必ずしも同じ種類の存在であると見なす必要はないのではないか。

憂鬱感に関しては、訳もなく気が沈む日もあるから全てを一括りにして語ることは難しいけれど、それでもやはり「期待」がその根底にある場合は決して少なくないと思う。自分や他者、それらを取り巻く周囲の物事に関して、自分の思う「あるべき姿」や「理想の姿」という一種の期待があればこそ、それと乖離した現実に憂鬱や億劫を覚えるのだと思う。

こう書いておきながら、「ああでも、明日のバイトが憂鬱なのは別にバイト先に期待があるからではないな」と思った。憂鬱にはいろんな種類があるな。ここまで書いてきたことにも一気に自信がなくなってきた。

焦燥感にも憂鬱感と似たところがあるように思う。「あるべき姿」「理想の姿」というのがそれで、「卒論を進めなければ」「就職しなければ」という焦りは、大学生として、あるいは社会に生きる1人の人間として「社会から承認を得られるだけの水準を満たせる」という期待が多かれ少なかれ自分の中にあればこそ生まれるものなのではないだろうか。「卒論は絶対に書けないから退学するしかない」「就職は不可能だから森で暮らすしかない」という確信が真にあるとすれば、この種の焦りに囚われることはないと思うのだ。

ともかく、あくまでも自分の場合だけれど、精神的苦痛を減じる為にはあらゆる「期待」を放棄する必要がありそうだ。20年以上生きてきて、いろいろな物事に対して数え切れないほどの期待を抱いてきた自分に果たしてそんなことができるだろうか。もはや潜在意識にまで刷り込まれているであろう期待を、時間がかかるにせよどうすれば取り除いていけるだろうか。そう考えた時に浮かんだ案がひとつある。

それは「全ての物事の成り行きは決まっている」と信じること。なんだか宗教臭くて怪しい感じがするけれど、考えてもみれば何かしらを信じずして生きることなどできないと思う。科学を信じることすら結局は信仰の域を出ないのだから。

話が逸れたが、物事の成り行きが予め決定していると信じることができれば、多少は「期待」から自由になれるような気がする。仮に期待を持ってしまいそれが裏切られたとしても、それも予定調和なのだと割り切ることができるのではないかと思うのだ。

全てが決まっていると信じることは、「自分の人生を自分で決められる」という考えが錯覚であると信じることだ。人生は自分の意思に関わらず進んでいく。どれだけ情熱を注ごうが、等閑に生きようが、成功も失敗も全ては自分の与り知らぬところで決まっている。それを決めるのが神か鬼かはどちらでもいい。ただただ不可抗力の連続がそこにあるだけなのだと信じる。難しくても、信じる。

全ては不可抗力なのだから努力からも解放される。怠慢によって身に降りかかる災難も苦難も全てははじめから決まっていたことなのだと信じる。努力するか否か、それができるか否かすら、予定されているのだと信じる。

それができれば全てを諦められると思う。目の前の他者でも、理不尽な社会でもなく、それらを運命付ける「予定調和」に全ての責任を転嫁すれば、不必要に恨みや悲しみを感じることもない。誰かを責める意味もない。私を裏切るあの人も、私を受け入れない社会も「予定通り」を演じているに過ぎないのだから。

私が生まれた22年前のあの日から、あるいはそれよりももっとずっと前から、きっと私の人生とその終わり方は事細かに決まっているのだ。決まり切ったこの人生、如何なる主体的選択もなし得ないはずの人生だと思えば、今日は何を食べようか、何時に寝ようかと迷うことができる自由に小さな幸せを見ることができるような気がする。きっと本当はそれすらも決まっていて、私は自由の夢を見ているに過ぎないのだろうけれど。

それがきっと、今の自分にできる一番楽な生き方だと思う。