仰々しいタイトルだなぁ。

でも自分にとっては大きな命題のひとつなのだ。

先日の記事に書いた"努力"と同じでこれもまた自分にとってひとつの呪縛になっているのだが。呪い多いな。自分は何か禁を犯したのだろうか。

冗談はさておき、もうずっと長いこと善について考えている。

「"善"ってなんだろう」

「"善"く生きるってどうやるんだろう」

自分にそれが成し得ないとどこかでわかってはいるけれど、ふとしたきっかけで考えてしまう癖がついている。たとえ自分にできなくても、それが一体何なのか知っておきたいなんて高望みをやめられずにいる。

 

「人に優しくしなさい」

「思いやりを持って人に接しなさい」

 

それが、幼い頃からの両親の教えだった。自分は、人間にとって一番大事なものは優しさなのだと教えられて生きてきた。両親はひとつの"善"を示したと言えると思う。しかし結果から言えば、自分は優しい人間になることはできなかった。日々Twitterで社会や企業やキャリアアドバイザーへの逆恨みを綴り、能力ある人を妬む人間が優しいはずはない。

しかし、この自分とて妬み嫉みに染まろうと奮起してこれほど醜悪な人間になったのではない。言い訳がましさのあまり書いていて息が詰まる。書き手でさえそうなのだから、読んでくださる方はなおのことだと心中察するに余りある。が、書く。

両親の教えのもとに育った自分は、子供ながらに優しさと思いやりを模索し続けた。自分にできることなど本当に小さいことばかりだったから、思い出せることもほとんどないけれど。陰口を言わないとか、消しゴムを貸してあげるとか、その程度のありふれた優しさをできる限り実践した。「教え」に反してしまった日は一人前に後ろめたさに苛まれたりもした。

そうして過ごすうちに、私は周囲から「優しいね」「いい人だよね」と言われるようになった。両親の願いを叶えることができたわけだ。「教え」を体現することができたという意味でもそうだが、それ以上に、そう思われたいと思っていた通りの評価を受けて少し得意になる自分がいた。

しかしある時から、自分の「優しさ」や「思いやり」に違和感を抱くようになった。きっかけとなる出来事があったわけではないが、恐らく高校1年くらいのことだと思う。

「自分は本当に優しいのだろうか」

そんな疑念が立ち込めてからというもの、人に「優しく」する度、また、人から「優しいね」と言われる度にある種の居心地の悪さを感じるようになった。

自分をこの得体の知れない歯痒さから解放したのは、ある言葉だった。

 

偽善

 

それ以前から知っていた言葉ではあったが、初めてこの言葉を明確に意識した時、自らの「優しさ」と「思いやり」に対して感じていたモヤモヤが一気に晴れた。と同時に、自分の汚さを酷く嫌悪するようなった。

自分は両親から「優しくあれ」「思いやりを持て」と言われ、その教えを守るために、つまり思いやりのある優しい人間になるために人と接していた。これは決して優しさなどではないと気付いた。「優しい人間になる」という自分の目的の為に他人を使っているに過ぎない。それでいて、他人からはあたかも人格者かのように見えている。自分がしてきたことは、巧妙に、狡猾に、うわべをいかにも善人らしく見せる偽善そのものだった。

純粋に人としての在り方を説いた両親を前に、自分はその意味を履き違え、過ちを繰り返し、気付けば両親の願いとは真反対の人間になっていた。やめられるものなら今すぐにでもやめたい。やり直せるものならやり直したい。本当の優しさを手に入れてみたい。しかしそれはもう二度と叶わない。断言できる。なぜなら自分は「世間で"優しさ"と呼ばれるもの」を知ってしまったから。本物を手にすることは叶わなかったが、それと瓜二つの、しかし似て非なるものの存在を知ってしまっている。そうである以上、この先どれほどそれを願っても本当の意味で優しさを実践することはできない。

 

自分は今でも偽善を繰り返している。染み付いた振る舞いがずっと抜けないでいる。気付いたところでやめられないというのがなんとも自分らしい。

「優しいね」

「いい人だよね」

私の汚さを知らない人達は、自分の偽善に触れてはそう言ってくれる。その言葉に伴う痛みが恐らく自分の罪なのであり、生涯をかけて償っていかなければならないのだと思う。

善に焦がれる偽善者こそが偽らざる自分の姿なのだと思う。