何も思いつかない。

なら書くなという話だけれど、三日坊主の自分に抗いたい気持ちが少しあるのでブログを開いてみた。ぜひその心意気を就活に向けて欲しいのだが、なかなかそうもいかない。今日はたった1時間半程度だけど、耐え難きを耐え忍び難きを忍んでWeb説明会に参加したのでそれに免じて許してほしい。

日々こんな苦痛に耐えて、ESを書いて、適性検査を受けて、面接に向かっていく就活生は凄い。本当に凄い。毎日そう思うし、それが"普通"とされる社会が怖い。そして"普通"たりえない自分はやっぱり情けない。

社会人生活に希望を抱いてキラキラ輝きながら就活を進める人も、将来に不安を抱えて悶々としながらも日々やるべきことを積み重ねていく人も、明日頑張るために今日を休息に充てた人も、自分には皆眩しく見える。皆努力している。

努力。自分は努力ができない。「努力ができない」と言うと怠慢を能力の有無にすり替えて語っているように聞こえてしまうし、「努力をしない」というと潜在的には能力があるかのような驕りが滲んでしまう。だからなんと表現したらいいのかいつも迷うのだけど、とにかく自分は努力と縁遠いところにいる。努力と距離を置いて気楽に生きられるならそれほど幸せなことはないのだけど、皮肉なことに他ならぬ自分の価値観がそれを許してくれない。

努力は素晴らしい。

努力できない人間はどうしようもない。

多分小中高、もしくはその前からの教育を受ける中でこの種の考え方が自分の中に根を張ったのだろうと思う。部活や勉強に始まり運動会や合唱祭、果ては清掃の時間まで、学校生活の中で努力が礼賛されるシーンは挙げればきりがない。そしてそこで褒めそやされる努力にはいつだって「苦労を伴うもの」としての響きがそこはかとなく漂っていた。そんな環境の中にどっぷり浸かっていながら自らの努力習慣は一向に定着しなかった。代わりに、決死の思いで何かに努めている人は偉いのだという感覚だけは立派に身についた。同じ結果を出した人でも、要領良くスイスイとそこに辿り着いた人よりも、粉骨砕身額に汗を滲ませながらやっとの思いで目標地点に到達した人の方が凄いのではないかという錯覚が生まれた。少し考えればそんなことはないとわかる。少し考えてそう気付けるくらいには大人(笑)になったのかもしれないけど、依然としてもがき苦しみながら前に進もうとしている人がとても眩しく見えるのは変わらない。強いて成長を見出すなら、「要領良くスイスイ」と目標に辿り着ける人は「最短距離を算出すること」に努めているという意味で努力を絶やさない人でもあるということがわかったことかもしれない。

もう何を言ってるのかよくわからなくなってきたけど、私が言いたいのは、「自分は努力する習慣を身につけることができなかったが、一方で努力を賛美する精神だけは晴れて獲得してしまった」ということだ。これは自分の中で強烈な呪いとして働いている。努力を目にする度に感心の大きさと同じだけの自責が返ってくる。それを叱咤に変え自らの尻を叩いて努力に昇華できる人もいるのだろうけど、自分にはどうしてもできない。だからどれだけ自責しようが無駄にしかならない。何も生まない。自分の中の努力像はただ自らの精神を削る自己破壊装置として稼働している。わかってはいるけれど自分の意思で止めることができない。努力に対する価値観ごと破壊しない限り、恐らくこれは一生続くと思う。でも10年以上の歳月によって盤石となった努力信仰を吹き飛ばすのは容易ではないし、これにもまた努力が要る。詰みだ。

この話にオチはない。思いつく限りを書き殴っただけ。書き進めるうちにうまく考えられなくなってしまった。

ひとつだけ、努力という習慣を獲得するためには必要な資質があるんじゃないかという話を言い訳程度にしておく。思い当たる資質は2つほどある。ひとつは、自分の努力が成果を生み得るという自信。これは多分過去の努力経験、成功体験に由来する。もうひとつは、自分の将来ひいては人生を良くしたいという思い。なんとかして現状を打開したい、より高い所に行きたい、そんな思いが努力を生むのかななんて考えている。ありふれていてつまらない考えだと思うけれど。どちらも必要なのか、片方だけでもいいのか、それとも双方とも努力習慣を決定づける因子ではないのか、本当のところはわからない。あくまでも自分の経験則だから。少なくとも自分は努力から遠い場所にいて、ここで「2つの資質」などと呼んだものを持ち合わせていないから、手頃な要因としてこじつけてみただけの話。

取り留めのない話ってまさにこういうことを言うんだろうな、終わり。