そうですか

まだ遠くにいるな〜と思って少し目を離していたところ、気付いたら卒論に羽交い締めされてました。あの世でもう一度死んだような気持ちです。そういう訳で卒論が一段落するまでブログの更新はできそうにありません。とはいえネット離れを断行するほどの意志の強さはもちろんないので、しばらくはTwitter上で短い悲鳴を乱発するモンスターになりそうです。ご了承ください。

化けの皮

いつかせねばと思っていた話をします。

いつか話さなければと思っていたのですが、それは自分にとって勇気が要ることだったので遠ざけてしまっていました。なぜなら、この話をすることは自分のブログを読んでくださる方を否定することになってしまうかもしれないからです。自分のブログを読むことに貴重な貴重な時間を割いてくださる方を否定するようなことは決して本意ではありません。それは心の底からの思いです。しかし、そういった方々の思いを、場合によっては無下にしてしまいかねない自意識を持っているのも事実です。だからこそ、それを隠し立てなく白日の下に晒し、懺悔することが自分に示し得るひとつの誠意なのではないかと思い至り、ここに綴ることを決めました。

 

改めまして、私の自意識についての話です。

私には能力がありません。この確信は揺るぎません。その上、情けないことですが、私は自らの欠陥を補うための努力すら厭う人間性の持ち主です。だから必然的に改善も成長も無いままです。きっとこの先も。こんな人間が褒められることなど無くて当然ですし、そもそも自分が褒められることを想定する必要すら無く、そういった考えが脳裏に浮かぶことすらありませんでした。

しかし、ヒトモドキ(@nammo_wakaran)というTwitterアカウントを開設してから想定外のことが起こりました。自分を褒めてくださる方が現れたのです。本当に驚きました。身に覚えがないからです。そういった方々の多くは、「語彙力」や「文章力」といった要素を挙げて私を褒めてくださいました。これらの言葉に驚きや戸惑いを感じながらも、そこに嬉しさが同居していたことに嘘はありません。しかし、この嬉しさは上述の方々から「温かい気持ちを向けられたこと」に対するものであり、「自分を認められたこと」に対するものではありません。まわりくどくなってしまって申し訳ないのですが、語弊を恐れずに言えば、私は自分に向けられた褒め言葉を"正面から"受け取ることができないのです。いただいた褒め言葉は「語彙力」や「文章力」に対するものですが、私は自分がそれらを備えているとは本当に思っていません。だから、褒め言葉をくださる方々の温かさには深く深く痛み入りながらも、褒め言葉の全てを受け取ることで私自身の「語彙力」や「文章力」を認めるということがどうしてもできないのです。この故に、第一に褒めてくださる方の言葉に真摯に向き合うことができないこと、第二に私の言葉はそういった方々を騙しているのではないかということに対し罪悪感を覚えています。

このうち、2点目に挙げた罪悪感については、今、私がブログを更新する理由のひとつともなっています。どういうことかと言いますと、何度もブログを更新しているうちにきっとボロが出るはずだという目論見を持っているのです。一つや二つの記事では見え難い粗のようなものが、記事の数が増えるにつれ、表面化するのではないか。そのようにして浮き出た粗が、皆さんに、私が「語彙力」や「文章力」など備えていないということに気付いていただくきっかけになるのではないかと思っているのです。勿論、ブログを続ける理由の大部分を占めているのは就活や人生を嘆きたい自分の自己満足であり、上の理由はこれに次ぐ程度のものです。しかし、偽りの力や才能のようなものを錯覚させ続けることが余りに忍びなく、私が平々凡々を下回る程度の存在であることに気付いていただきたいという思いが確かにあることも知っておいていただきたいと思うのです。本来であれば、小説家でもなければブロガーでもない、なんでもないただ小さなブログをやっているだけの筆者がこんなことを自ら話題にするべきではなく、大変おこがましい行いであることは自覚しています。その点も併せてお詫びしたいです。

 

最後になりますが、なんだかんだと言ってもブログを読んでいただけることは大変嬉しいです。これまで読んでくださっていた方が、この記事を読んでもなお「次の記事も読みたい」と仰ってくださるのであればこれほどの喜びはありません。一方で、「こんなことを考えていたのか」「せっかく評価してやっても届かないのか」といった声があって然るべきだと思います。そのような残念な思いを抱かせてしまった方には重ねてお詫びいたします。申し訳ありませんでした。

意味

「生きる意味がわからない」という陳腐な悩みを抱えている。この疑問がこんなにも手垢に塗れているのは、この問いが沢山の人を悩ませ、時に死なせてきたこと、そして、多くの時間や命の犠牲を経てなお、問いに対する普遍的な答えが未だ与えられていないことの証左だろう。

しかし困る。生きるのは、少なくとも自分にとってはとてもとても大変だ。骨が折れるなんてものじゃない。全身を粉砕骨折した上で、数少ない友人を呼んできて片っ端から骨を折って回ってもまだ足りないくらい大変だ。この労苦をひとりで背負い切れる気がしない。それでいて、人生は他人の骨を折って回るくらい意味のない徒労のようだ。「労苦に意味がないのではないか」という疑念そのもののが生きづらさを加速させる。だからせめて、自分が知らないだけであってほしい。まだ見つかっていないだけであってほしい。人生に、この苦痛に意味がほしい。

 

でもやっぱり意味なんてないんじゃないか。

ただただ続く無機質な責め苦こそが人生で、生きるということはその痛みをどうにかこうにか紛らわせて死を待つことなんじゃないか。

 

さっきベランダで夜風に当たりながらそう思った。人間の生にまで話を広げるつもりはないけれど、少なくとも自分の生はそうである気がする。

人間は皆所詮"生まれた"存在だ。自らの誕生に自覚的であることは決してできない。自分の命は自分の意思の及ばないところで作り出されるのだから。どんなに頭の良い哲学者だってその一人だ。そうだとすれば彼あるいは彼女がどれほど思索を深めたとしても、生まれた意味を普遍的な形で導き出すことはできないのではないだろうか。そして、生まれた意味を普遍化できない以上、生きる意味も普遍的たりえないのではないだろうか。

人生は幾度となくマラソンに例えられてきたが、確かに納得できるところが多い。参加者は思い思いの意図を持ってマラソン大会に臨む。一等賞を獲りたいという野望であったり、運動不足を解消したいという思いであったり、気まぐれだったり。中には友人に誘われて仕方なく参加する人もいるかもしれない。皆それぞれの理由をもってマラソンを走るわけだが、マラソンそのものには普遍的な意味はない。意味はないというと語弊がありそうだが、各大会が主催側の何らかの意図のもとに催されているにせよ、マラソンという競技そのものに普遍的な意味は無い。多分。そして、スタートの号砲は参加者の意思と全く関係のないところで鳴らされる。

この号砲が、人生で言うところの誕生に当たるのではないだろうか。マラソンと違うのは、号砲以前の段階では自らの意思が一切働き得ないところだ。「最近太ってきたから来月のマラソン大会行ってみようかな〜」みたいなことが人生においてはできない。だから皆、走り始めてから走る意味を考えなければならない。走ることに意味を要しない猛者もいるかもしれないが、自分のように息も絶え絶え、なんとか足を動かし続ける人、足を止めることが脳裏を行ったり来たりしている人にとってこれはまさしく死活問題だ。どうにかこのレースの意味を知りたい。足を動かす理由がほしい。そう思う人がいるはずだ。いてほしい。

恐らく、ある程度主体性を備えた人なら無理矢理にでもその理由を見つけられるのではないかと思う。その理由や各人にとってのレースの意味にきっと優劣は無い。その人がマラソンを走り続けるに足る感覚さえ手にできればそれで十分なのだと思う。

しかし自分にはそれはできない。自分が欲しかったのは普遍的な意味だったからだ。そしてそれが欲しかったのは、自分が致命的に主体性を欠いているからだ。自分自身でこの人生に意味付けをすることができない。この苦痛を受け容れるに足る意味、価値、理由は自分の中にはない。「その為に生きている」という何かを自分の力で獲得することが出来ないから、与えてほしかった。親でも友人でも頭の良い学者でもいいからそれを教えてほしかったのだ。でも、そんなものは恐らくないということがわかってしまった。その先は一切わからないのに、それだけがわかってしまったから、途方に暮れている。

 

この「マラソン」が本当のマラソンと大きく異なる点がもうひとつある。リタイアの仕方だ。本当のマラソンにおいては、リタイアに際して苦痛を強いられることはないだろうと思う。自分の調子と相談して、駄目であればすんなりレースを降りることができる。でも人生マラソンは違う。それが一時的なものであれ、リタイアには大抵多大な苦痛が伴う。どうしてだ。苦痛から逃れたくてリタイアを考えているのに、更なる苦痛を強いられるのは我慢できない。その上リタイア後の処理を巡って主に家族に相当の迷惑をかけるという。本当に意味がわからない。もはや止まっているのか進んでいるのかすらわからないが、そういうわけでレースを降りられないのだ。

それだけだ。自分が生き永らえている理由は、本当にそれだけ。リタイアが嫌なんじゃない。それに伴う心身の痛みが怖い。情けないがそれが全てだ。それが今この瞬間自分が生きている意味だ。生の苦しみと死の苦しみの相克を早く、早く克服したい。それがどちらの結果を意味するものでも構わないから。

 

仰々しいタイトルだなぁ。

でも自分にとっては大きな命題のひとつなのだ。

先日の記事に書いた"努力"と同じでこれもまた自分にとってひとつの呪縛になっているのだが。呪い多いな。自分は何か禁を犯したのだろうか。

冗談はさておき、もうずっと長いこと善について考えている。

「"善"ってなんだろう」

「"善"く生きるってどうやるんだろう」

自分にそれが成し得ないとどこかでわかってはいるけれど、ふとしたきっかけで考えてしまう癖がついている。たとえ自分にできなくても、それが一体何なのか知っておきたいなんて高望みをやめられずにいる。

 

「人に優しくしなさい」

「思いやりを持って人に接しなさい」

 

それが、幼い頃からの両親の教えだった。自分は、人間にとって一番大事なものは優しさなのだと教えられて生きてきた。両親はひとつの"善"を示したと言えると思う。しかし結果から言えば、自分は優しい人間になることはできなかった。日々Twitterで社会や企業やキャリアアドバイザーへの逆恨みを綴り、能力ある人を妬む人間が優しいはずはない。

しかし、この自分とて妬み嫉みに染まろうと奮起してこれほど醜悪な人間になったのではない。言い訳がましさのあまり書いていて息が詰まる。書き手でさえそうなのだから、読んでくださる方はなおのことだと心中察するに余りある。が、書く。

両親の教えのもとに育った自分は、子供ながらに優しさと思いやりを模索し続けた。自分にできることなど本当に小さいことばかりだったから、思い出せることもほとんどないけれど。陰口を言わないとか、消しゴムを貸してあげるとか、その程度のありふれた優しさをできる限り実践した。「教え」に反してしまった日は一人前に後ろめたさに苛まれたりもした。

そうして過ごすうちに、私は周囲から「優しいね」「いい人だよね」と言われるようになった。両親の願いを叶えることができたわけだ。「教え」を体現することができたという意味でもそうだが、それ以上に、そう思われたいと思っていた通りの評価を受けて少し得意になる自分がいた。

しかしある時から、自分の「優しさ」や「思いやり」に違和感を抱くようになった。きっかけとなる出来事があったわけではないが、恐らく高校1年くらいのことだと思う。

「自分は本当に優しいのだろうか」

そんな疑念が立ち込めてからというもの、人に「優しく」する度、また、人から「優しいね」と言われる度にある種の居心地の悪さを感じるようになった。

自分をこの得体の知れない歯痒さから解放したのは、ある言葉だった。

 

偽善

 

それ以前から知っていた言葉ではあったが、初めてこの言葉を明確に意識した時、自らの「優しさ」と「思いやり」に対して感じていたモヤモヤが一気に晴れた。と同時に、自分の汚さを酷く嫌悪するようなった。

自分は両親から「優しくあれ」「思いやりを持て」と言われ、その教えを守るために、つまり思いやりのある優しい人間になるために人と接していた。これは決して優しさなどではないと気付いた。「優しい人間になる」という自分の目的の為に他人を使っているに過ぎない。それでいて、他人からはあたかも人格者かのように見えている。自分がしてきたことは、巧妙に、狡猾に、うわべをいかにも善人らしく見せる偽善そのものだった。

純粋に人としての在り方を説いた両親を前に、自分はその意味を履き違え、過ちを繰り返し、気付けば両親の願いとは真反対の人間になっていた。やめられるものなら今すぐにでもやめたい。やり直せるものならやり直したい。本当の優しさを手に入れてみたい。しかしそれはもう二度と叶わない。断言できる。なぜなら自分は「世間で"優しさ"と呼ばれるもの」を知ってしまったから。本物を手にすることは叶わなかったが、それと瓜二つの、しかし似て非なるものの存在を知ってしまっている。そうである以上、この先どれほどそれを願っても本当の意味で優しさを実践することはできない。

 

自分は今でも偽善を繰り返している。染み付いた振る舞いがずっと抜けないでいる。気付いたところでやめられないというのがなんとも自分らしい。

「優しいね」

「いい人だよね」

私の汚さを知らない人達は、自分の偽善に触れてはそう言ってくれる。その言葉に伴う痛みが恐らく自分の罪なのであり、生涯をかけて償っていかなければならないのだと思う。

善に焦がれる偽善者こそが偽らざる自分の姿なのだと思う。

何も思いつかない。

なら書くなという話だけれど、三日坊主の自分に抗いたい気持ちが少しあるのでブログを開いてみた。ぜひその心意気を就活に向けて欲しいのだが、なかなかそうもいかない。今日はたった1時間半程度だけど、耐え難きを耐え忍び難きを忍んでWeb説明会に参加したのでそれに免じて許してほしい。

日々こんな苦痛に耐えて、ESを書いて、適性検査を受けて、面接に向かっていく就活生は凄い。本当に凄い。毎日そう思うし、それが"普通"とされる社会が怖い。そして"普通"たりえない自分はやっぱり情けない。

社会人生活に希望を抱いてキラキラ輝きながら就活を進める人も、将来に不安を抱えて悶々としながらも日々やるべきことを積み重ねていく人も、明日頑張るために今日を休息に充てた人も、自分には皆眩しく見える。皆努力している。

努力。自分は努力ができない。「努力ができない」と言うと怠慢を能力の有無にすり替えて語っているように聞こえてしまうし、「努力をしない」というと潜在的には能力があるかのような驕りが滲んでしまう。だからなんと表現したらいいのかいつも迷うのだけど、とにかく自分は努力と縁遠いところにいる。努力と距離を置いて気楽に生きられるならそれほど幸せなことはないのだけど、皮肉なことに他ならぬ自分の価値観がそれを許してくれない。

努力は素晴らしい。

努力できない人間はどうしようもない。

多分小中高、もしくはその前からの教育を受ける中でこの種の考え方が自分の中に根を張ったのだろうと思う。部活や勉強に始まり運動会や合唱祭、果ては清掃の時間まで、学校生活の中で努力が礼賛されるシーンは挙げればきりがない。そしてそこで褒めそやされる努力にはいつだって「苦労を伴うもの」としての響きがそこはかとなく漂っていた。そんな環境の中にどっぷり浸かっていながら自らの努力習慣は一向に定着しなかった。代わりに、決死の思いで何かに努めている人は偉いのだという感覚だけは立派に身についた。同じ結果を出した人でも、要領良くスイスイとそこに辿り着いた人よりも、粉骨砕身額に汗を滲ませながらやっとの思いで目標地点に到達した人の方が凄いのではないかという錯覚が生まれた。少し考えればそんなことはないとわかる。少し考えてそう気付けるくらいには大人(笑)になったのかもしれないけど、依然としてもがき苦しみながら前に進もうとしている人がとても眩しく見えるのは変わらない。強いて成長を見出すなら、「要領良くスイスイ」と目標に辿り着ける人は「最短距離を算出すること」に努めているという意味で努力を絶やさない人でもあるということがわかったことかもしれない。

もう何を言ってるのかよくわからなくなってきたけど、私が言いたいのは、「自分は努力する習慣を身につけることができなかったが、一方で努力を賛美する精神だけは晴れて獲得してしまった」ということだ。これは自分の中で強烈な呪いとして働いている。努力を目にする度に感心の大きさと同じだけの自責が返ってくる。それを叱咤に変え自らの尻を叩いて努力に昇華できる人もいるのだろうけど、自分にはどうしてもできない。だからどれだけ自責しようが無駄にしかならない。何も生まない。自分の中の努力像はただ自らの精神を削る自己破壊装置として稼働している。わかってはいるけれど自分の意思で止めることができない。努力に対する価値観ごと破壊しない限り、恐らくこれは一生続くと思う。でも10年以上の歳月によって盤石となった努力信仰を吹き飛ばすのは容易ではないし、これにもまた努力が要る。詰みだ。

この話にオチはない。思いつく限りを書き殴っただけ。書き進めるうちにうまく考えられなくなってしまった。

ひとつだけ、努力という習慣を獲得するためには必要な資質があるんじゃないかという話を言い訳程度にしておく。思い当たる資質は2つほどある。ひとつは、自分の努力が成果を生み得るという自信。これは多分過去の努力経験、成功体験に由来する。もうひとつは、自分の将来ひいては人生を良くしたいという思い。なんとかして現状を打開したい、より高い所に行きたい、そんな思いが努力を生むのかななんて考えている。ありふれていてつまらない考えだと思うけれど。どちらも必要なのか、片方だけでもいいのか、それとも双方とも努力習慣を決定づける因子ではないのか、本当のところはわからない。あくまでも自分の経験則だから。少なくとも自分は努力から遠い場所にいて、ここで「2つの資質」などと呼んだものを持ち合わせていないから、手頃な要因としてこじつけてみただけの話。

取り留めのない話ってまさにこういうことを言うんだろうな、終わり。

紫煙

今日もまた、ここにいます。

開くべきはリクルートサイトであり、綴るべきは志望理由と自分の価値なのに、仄暗く湿った言葉を吐くことしかできずにいます。

でも実はもう、書くべきエントリーシートがありません。提出を見送るうちに、締切に追われることはなくなってしまいました。企業を探す気も起きません。

ベランダの室外機に腰掛けて煙草をふかしていると、くだらない感傷が込み上げてきます。鼓膜を伝う音楽が、それを憂鬱と呼ぶことを許してくれるような気がします。

煙草に手をつけたのは、ある企業のWebテスト受検を諦め、エントリーを見送った日の夜更けでした。自分なりに推敲を重ね、どうにかエントリーシートの提出まで漕ぎ着けた企業でした。

もうどうでもよかった。

どうでもいいはずだった。

それでも未だにその日を思い出すのは、多少の未練があるからでしょうか。心の奥底にある思いは自分でもいまいちわからずにいます。でも、入社への道を自らの手で閉ざしてしまったことへの後悔よりも、やっぱり"普通"のことが"普通"にできない自分に対するもどかしさや怒りの方が大きいような気がします。その一件に限らず、名ばかりの就活生として過ごす毎日はそんな失望の繰り返しです。

ともかく、その日の自分は鬱憤の捌け口を煙草に求めました。大嫌いだった煙草に。

1本目。恐る恐るそれを咥えて火を点け、思い切って息を吸うとひどくむせ返りました。恐らく、この世のどんな生物よりも醜く滑稽な姿だったろうと思います。喉を痛めながら吸い込んだ煙のその味は最悪でした。少しだけ安心しました。一箱でやめられると思ったからです。感情に任せてコンビニに走ったものの、煙草の味を知る頃にはいくらか冷静さを取り戻していたようでした。情けないなと思います。

私が就活生でさえなければ、きっと煙草をやめることができたでしょう。そもそも始めることもなかったとは思いますが。

お察しの通り私に内定はありません。今のところいただく見込みすらも。しかし気力と能力の乏しさに託けてどれだけ就活から逃げようとも、就活生の肩書きから逃れることは叶いません。

無気力、無気力、無気力、失意。無気力、失意、無気力。

そんな1週間の拠り所を、いつしか煙草が占めるようになっていきました。はじめはただ不味いだけだった風味も、さほど悪いものとは感じなくなっていました。就活への拒絶感もこうして薄れてくれたらなんてくだらないことを考えます。そして、煙草を咥えている間はそれがほんの少し現実になるような心地がします。多分そんな作用はありません。きっと逃避衝動の宛てに煙草を選んだ自分の正しさを信じたい私がいるだけなのだと思います。でも、煙を肺に回すと、眩暈に似た感覚が生じるのは本当です。それが思考を虚にしてくれます。脳内にうず高く積み上がったto doリストと呼ぶには乱雑なそれを、煙草はほんの一瞬、霧で包んでくれます。ほどなくして晴れ渡ってしまいますが。

日に日に煙草の量が増えていきます。

今更行動を起こすにはあまりに時間が足りず、かといって何もしないでいるには1日という時間は長過ぎます。空疎な日々の隙間に灰が積もっていきます。名実ともに灰色の人生のできあがりという具合です。

 

5月を前に、少し急いて暖かくなった風が紫煙をくゆらせます。それがゆっくりと外気に溶けていく様を見ています。"百害あって一利なし"と忌み嫌われる白とも灰色ともつかない無個性を纏った毒は、4月の風に馴染めるでしょうか。

私はいつか煙草をやめられるでしょうか。

億劫

天女が百年に一度空から舞い降りて、身に纏った羽衣で山の岩肌を撫でる。それを幾度となく繰り返すと岩山が削れやがて平地になる。それまでにかかる時間の長さを"一劫"と表現するらしい。

そして、その一億倍の長さに当たるのが"億劫"。

途方もない時間と労力は想像することすら叶わない。

天女はどうして律儀に百年の周期を守って、健気に袖を振るうんだろう。岩山をならした先に何を見ているんだろう。無知な自分にはわからない。

自分には袖を振るい続けることはできない。

一劫先は愚か、明日のことすら考えたくない。

もう何もかも面倒臭い。何も考えたくない。

将来とか、幸せとか、本当にわからない。

それじゃ駄目なんだってこともわかりたくない。

生きるってどうしてこんなに大変なんだろうか。

何をしているわけでもない。やるべきことすら放り出して、朝方寝て夕方起きてそのくせ腹だけは一人前に空いて。"堕落"なんて言葉じゃ言い足りない日々を送っているだけなのに、どうしてこんなに疲れるんだろうか。

自己中心的なはずの性格もよくよく見れば自分のために生きることすら中途半端で、「若さ」や「可能性」なんて呼ばれるものをドブに捨て続けている。気付けば田舎の駅前の寂れたシャッター街みたいな将来を前にただ突っ立っている。未来なんて疾うに失っているのに、それでも今日も肺と心臓が動いている。生きることも死ぬことも出来ないでいる。

私は一体何なんだろう。

目的も意味も価値も無く臓器の独り歩きで保たれているだけの生命の惰性を、神はどうして咎めないのだろうか。見限らないのだろうか。生きるべき人が今日死んで、死ぬべき私が恐らく明日も生き永らえる不条理を、この世に生んだ神は万能だろうか。

明後日も明々後日もこの不条理は続くだろうか。私はまた血反吐の代わりに泣き言を吐いて、醜く生き延びるのだろうか。

 

一日が途方もなく長い。生命維持は果てしない労苦だ。この徒労の先に、擦り減った命が消滅するその瞬間に、一体何があろうか。わからないのは無知故だろうか。